今治城

別名 吹揚城 付近住所 愛媛県今治市通町3 現在 吹揚公園
2009/11/15 碑・案内板・銅像アリ 日本城郭大系


藤堂高虎→
津藩へ

藤堂高吉
名張へ


松平(久松)
定房→
定時→
定陳→
定基→
定郷→
定休→
定剛→
定芝→
勝道→
定法  
 今治城は堀に海水が引かれた近世の平城で、大手二の丸に藩主の館を、三の丸大手口の表門に鉄御門(くろがねごもん)、馬出(搦め手)口に山里門を置いていました。藤堂高虎は、慶長7年(1602年)6月から今治城の普請を開始、慶長9年に完成しました。同時期に徳川家康の天下普請に乞われ、各地の多くの築城の縄張りに関与しています。従って、今治城は徳川系城郭の雛形と言われています。
 高虎の城づくりは、高石垣、広い堀、大手と搦め手を明確化、虎口の出入口には桝形・方形の区画を設け、郭は四角形の構成を基本とすることが多い等の特徴が見られます。高虎は豊臣秀長、豊臣秀吉、徳川家康と多くの主君に仕え、城づくりと現場の体験から、高虎独自の工夫と、当時の最先端の技術を活かし、築城の名手として知られています。
 自らの居城としては、紀伊猿岡城、伊予宇和島城・大洲城・今治城、伊勢津城伊賀上野城があります。豊臣政権下では秀長の命で、出石城、大和郡山城、聚楽第等を、秀吉の命では伏見城等を、徳川政権下では膳所城、再築伏見城、江戸城、丹波篠山城、再築丹波亀山城、再築二条城、再築和歌山城、再築大坂城淀城などを築いています。
 今治城は海浜に立地する大規模な平城、層塔式天守、桝形虎口、舟入等城郭築城上、革新的なものが認められています。主要部を水際に置き、陸地部に郭を広げていく城郭縄張りは、坂本城、近江大津城、膳所城、彦根城等の織豊期につくられた琵琶湖湖畔の城郭に多く見られ、これらの縄張りを祖形にしたものと考えられます。
 慶長末から寛永年間にかけて徳川幕府は、巨大な城郭を天下普請として驚くべき短期間に築いています。層塔式天守等に見られる、単純で規則的な積み上げ構造は用材の規格化を容易とし、工期短縮も可能とするなど、高虎は城郭構築技術の発展に大きく寄与したと思われます。

今治城沿革
藤堂高虎公は慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦に東軍徳川家康方の先鋒として戦功をたて伊予半国20万3千石を与えられた当時諸大名中随一の築城の権威であった高虎公は内海において海陸の要衝である今治を城地と定め渡邊勘兵衛を築城奉行に木山六之亟を普請方として慶長7年より同9年にかけて城壁高さ6間乃至8間を築き本丸には五層の天守閣その他には櫓城門等20数棟を配し三重の城濠をめぐらしてこれに海水を導入して当時としては他に類例のない一大平城を構築した、また公は家康に信任され慶弔13年伊勢の津に国替え増封されたが、天守閣は公が家康から丹波亀山城の築城を命ぜられた時、献じて亀山城に移築した。その後今治城は義子高吉が2万石で維持し更に寛永12年(1635年)に伊勢長島より久松定房が入城し、後3万5千石で世へ10代を経て明治維新となった。
現在の天守閣は昭和55年10月10日今治市制60周年記念として再建され往時の偉客を再現するに至った。
今治城跡は昭和28年10月9日愛媛県教育委員会から史跡として指定を受けている。

   

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